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2011年 11月 03日
遼陽で1期の検閲を終わったあとは、、奉天に入って、忠霊塔に近い奉天一中の講堂を宿営舎として、毎日コンクリートミキサーに入れる、砂利、砂、セメントの運搬で、肩に担いだこが出るほど、担いで、運んだ、トーチカのような戦闘指令所造りだった、出来上がる頃、長沼にある女学校の教室を、営舎として、再び同じような工事に、出かけていた、工事ばかりでなく工兵としての教育も、黄色火薬による爆破訓練や、折りたたみ舟を担いで、夜間の隠密行動という想定で、長沼公園の池の中にズブズブは入って舟に歩兵を乗せる訓練や、木橋を造るための、杭打ち針金による結束また、火薬を抱えて戦車攻撃の演習など、短い期間であったが工兵隊としての訓練は続けられた、私は20年の7月には、幹部候補生として、夕食後、暗くなった校庭で、号令調整と称して、大声をあげて、号令を掛けていた、食い盛りの初年兵は何時も腹ペコで号令どころではなかったのだが、
# by tiyouten | 2011-11-03 22:42
2011年 11月 03日
遼陽で1期の検閲を終わったあとは、、奉天に入って、忠霊塔に近い奉天一中の講堂を宿営舎として、毎日コンクリートミキサーに入れる、砂利、砂、セメントの運搬で、肩に担いだこが出るほど、担いで、運んだ、トーチカのような戦闘指令所造りだった、出来上がる頃、長沼にある女学校の教室を、営舎として、再び同じような工事に、出かけていた、工事ばかりでなく工兵としての教育も、黄色火薬による爆破訓練や、折りたたみ舟を担いで、夜間の隠密行動という想定で、長沼公園の池の中にズブズブは入って舟に歩兵を乗せる訓練や、木橋を造るための、杭打ち針金による結束また、火薬を抱えて戦車攻撃の演習など、短い期間であったが工兵隊としての訓練は続けられた、私は20年の7月には、幹部候補生として、夕食後、暗くなった校庭で、号令調整と称して、大声をあげて、号令を掛けていた、食い盛りの初年兵は何時も腹ペコで号令どころではなかったのだが、
# by tiyouten | 2011-11-03 22:26
2011年 10月 30日
安東の九番通りの家には鶏小屋があって、支那鳥が10羽ばかり飼われていた、おかげで、朝食のときにはよく卵御飯をたべた、弟の昭は子供のときから、愛らしくて、利巧だったので、父から可愛がられていた、ある日朝食の時、卵が無くて、豆腐の味噌汁だった時、昭は豆腐は固いから、卵を と云った、成人してから、兄弟が集まったときは、よく其の話が出て、弟は、ひやかされていた、昭和13年頃父が吉林の製材所の支店長で、吉林に行ったので、残された家族は、7番通りのアパートの二階に住んだ、そこには、前に父の部下であった、金乃福さんという朝鮮人と趙永順さんという満人がよく遊びに来てくれた、何時かは弟昭と私と4人で支那街の映画館に行った、、映画は「大家庭」という、コメデイ映画で、帰りに写真館で写真を撮った、其の写真はいまも残っている、懐かしい写真だ、昭和60年安東旅行をした時旅行社の人に、趙永順さんの消息を調べてもらったが、返答は無かった。趙永順さんは採木公司の中国人社員のトップの副理事長劉氏の親戚で其の家に出入りしていたので、私と水内通君は二人でよく劉氏の子供達の部屋に遊びに行って、小使さんのキセルに刻み煙草の葉のなかにマッチの頭だけを入れて、吸わせてみたりした、いたずらをして、遊んでいた、懐かしい思い出である。
金乃福さんは昭和14年頃には吉林の父の会社に入って、昔のように、我が家に遊びに来ていた。 終戦後、吉林に居た正子姉達がいろいろお世話になったそうだ、元気であれば、是非逢いたい人だ。 安東の7番通りでは、、弟録郎が、犬を余りにも怖がるので、清水さんという、父の友達の奥さんに頼んで産まれて間もない真っ白な小さなテリアをもらった。其の犬は「しろ」と名ずけられて、吉林の家まできて、可愛がられていたが、昭和16年父が亡くなり、母達が天草に引き揚げる時、川村百合子さんに飼ってもらうことになった、百合子さんの話では、小学生が通ると後から匂いをかぎにいっていたと、録郎を慕っていたらしい。 # by tiyouten | 2011-10-30 13:00
2008年 06月 29日
8月16日から暫くは何をしていたのか、終戦と同時に日本人と中国人の立場が逆転して8月16日の中国人は威圧するような目で日本人を眺めていたのが、強く印象に残っている。我々の宿舎であった長沼の女学校にある兵器は銃と剣くらい、何故か重機関銃が一丁女学校の廊下に並べられた、武装解除である、暴民のために、1個小隊に一丁の小銃が、許された、軍人である私から武器である剣が取り上げられると、なんとも心もとなくて寂しいくなって、杖のような物を持って歩いた。我々の部隊は第5軍司令部の命令によって、奉天郊外20キロの文官屯に移動することになった、我々は、女学校の教室に病弱な兵を残して、先遣隊ということで出発した、命令の聞き違いか、判断の誤りか、部隊は目的地の反対方向に進んでいたらしい、折から降りだした、雨の中泥濘の中を3日がかりで、目的地の文官屯に着いて満人の小学校を宿舎にして1週間ほど、その間は、歩哨も部落入り口での衛兵も、普通の軍隊生活であった。ある晩軍刀を袈裟懸けにした少尉と下士官が、俺達はソ連軍と戦うんだ、俺に就いてくる者はいないか、と衛兵所に駆け込んできた。誰もそれに従う者はいなかった、
数日後、私は本部の数人と、渡辺主計中尉と共に軍用金受領の為、奉天市内に行くことになった、軍服ではいけないと、支那服を着て荷馬車を1台借りて、出かけた先は鉄条網に囲まれてソ連の兵隊が50メーチル置きに立っている、まさに俘虜収容所となった鉄路学院であった。渡辺主計が中に入っている間、我々は門の外で待機をしていた、そこに、「俺は元憲兵だ」という人が来て、日本人はソ連に連れて行かれて、5年~7年重労働をさせられる、と短波放送で言っていた、と話て行った、 私が、本部の人と共に出かけて行ったのは、支那語が話せるから、ということらしかった、あまり喋りきらなかったのに。 私は帰ってすぐ小隊長の八坂好之助曹長に報告した、そしてすぐ小隊全員で逃げよう、ということになった、白石兵長は拳銃は、俺が長沼の女学校の床下に埋めてきたので、其れをもって行こう、食料、マッチお金などは各自で持って行こう、対馬出身の小隊長は、船のあるところまで行けたら、後は俺が何としてでも内地に連れて帰ってやる、と力強く言った。 部隊の移動日が決まった、其の日の混雑にまぎれて、脱走しよう、皆支那服に着替えて行こう と、支那服は私が地元の満人と交渉して、移動の時、着替えるようにと約束をしていた、 その移動の前の日に、ソ連の兵隊がマンドリンという自動小銃を抱えて我々の中に入ってきて、丸腰の我々から、お金、時計、食料品などすべてを強奪して行った、まさに強盗であった、 小隊長は、脱走は暫く様子を見よう、ということになって、翌日そのまま鉄路学院に行くことになった。 約束をしていた満人は支那服を2枚着てきていたが、私はそれに応えることが出来なかった。 # by tiyouten | 2008-06-29 11:32
2008年 06月 28日
20年2月26日博多の東公園の日蓮上人銅像前に集合した、近くの学校の講堂で私服を脱いで、軍服に着替えた、其の夜、中洲の宿の隣にあった写真館で軍服を着て映したのが、私の唯一の軍服姿の写真である。博多の宿には、かって吉林で秀彦兄の彼女だった古川久子さんが、見送りに来ていた、そしてその翌日まだ暗い午前4時ごろ博多の港まで、見送ってくれた、終戦後彼女は、結核で亡くなったと、兄から聞いた。
釜山を出て京城、を経て安東を通過して入営したのは、遼陽の工兵隊であった、もとロシア軍の兵舎をそのまま利用した、各部屋ごとにペチカがある兵舎で、3ヶ月の初年兵教育を受けた。古年兵たちの自慢は、我々の原隊は肉弾三勇士の久留米の工兵隊だということだった。軍隊という所は殴られるところだ、という話があるが、我々は、誰も殴られたものはいなかった。終戦間際の軍隊には、同年兵に、各小隊に2・3名の朝鮮人がいた。 演習の毎日、10時ごろになると、満鉄の亜細亜号が驀進するのを眺めるところに兵舎は建っていた。3ヶ月の検閲が済むと、奉天の1中に移動した、忠霊塔の横に鉄筋コンクリートの戦闘指揮所つくりの作業であった、毎日コンクリート打ちの作業に通いながら夜は幹部候補生受験の為に勉強をした、忠霊塔での作業の次は、長沼の公園に同じような鉄筋コンクリートのトーチカを作る作業であったが8月9日急遽、東稜に戦車壕を作るために、中隊は移動したが、2,3日すると又命令が出て、奉天駅に機材を積み込む作業をした、やっと積み込んだところでまた命令が出て、長沼に帰れと、・・・・ソ連軍が侵攻して、現在地で戦う予定が変更されて、通化の防衛線に下がって戦う予定が天皇陛下の停戦命令で、元の位置に帰れ、ということであったのか、 終戦の詔勅は長沼の女学校の校庭で聞いた、 雑音の中で、あまり良く聞き取れなかったが、終戦であることは、なんとなく理解した、今からどうなるのだろうと、いう不安は、軍隊と言う力強い集団の中に居ても感じていた。 終戦の其の日アメリカの飛行機ノースアメリカンB25というのが飛んできて、パラシュートをパラパラと落として行った、 部隊長大西大尉は、堀内見習士官に、1個分隊の兵をもって、つかまえて来いと、命令した、1時間ほどしても帰ってこないので、私に様子を見て来いと、言われた私はすぐ横に居たトラックに乗って、運転手の2等兵に現場に行くように頼んだ、其の時私は幹部候補生の座金をつけた上等兵であった、 トラックはすぐ走り出したが100メートルもした所で、停まってしまった、運転手の2等兵は、ボンネットを開けて機械の調子がおかしいと、なにかやっている、暫くすると向うの方から、よその見習士官が来たので、パラシュートのことを聞くと 捕虜収容所のアメリカ人を救助するために、降下して、オートバイで行ったと、言われた、其れを聞いたら、トラックはすぐ動き出した。40歳を過ぎた2等兵であった。 翌日になると、中国人の態度は、一変した。 # by tiyouten | 2008-06-28 18:33
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